汚泥処理について(1)

2015.02.27汚泥処理

汚泥処理、処分の概要。

汚泥処理、処分はその時々の社会情勢の変化や関係法令などに従い変遷してきた。この技術の推移は概ね、海洋処分―天日乾燥―機械脱水―汚泥焼却の各時代に区分される。

大正11年に運転開始した三河島汚水処分場で発生した汚泥は、「さし散槽」に濃縮貯留され、ポンプで「さし船」と呼ばれた運搬船に積み込まれてお台場、品川、州崎沖の海中に散布された。

この海洋処分は戦時中の重油入手難により運搬船の運航が困難となり、昭和18年に停止せざるを得なかった。そこで応急策として、三河島、芝浦などの汚水処分場の空地に、急遽乾燥床を築造して天日乾燥による汚泥の肥料化が始まり、昭和19年、三河島汚水処分場に汚泥天日乾燥床を増設して汚泥の肥料化を開始した。昭和21年には芝浦汚水処分場にも汚泥乾燥床を設置し乾燥汚泥の生産を開始した。そして乾燥汚泥は有機肥料として農村に還元されたが、昭和30年代になると需要が徐々に低下してきた。さらに乾燥時の臭気などの苦情もあり機械脱水が検討されるようになった。

一方、汚泥処理の嫌気性消化は、昭和3年ごろから汚泥の有機分をガス化して汚泥量の減少と処分の衛生化を図るために、三河島汚水処分場にパイロットプラントが設置され研究が進められていたが、皮肉にもし尿施設としてその第一歩を踏み出すこととなった。

GHQの示唆を受けた経済安定本部資源調査会衛生部会は、昭和25年12月、政府に対して「し尿の資源科学的衛生処理に関する件」を提出した。これは、「し尿の科学的処理法は嫌気性消化法が最善である。」として政府に勧告したものである。そして、消化機構と経済性、特に汲み取りし尿処理を考慮して単槽室二段消化方式の二重式消化槽が考案された。昭和28年、日本初のし尿消化槽が砂町下水処理場で稼動した。

消化槽の下水汚泥への採用は昭和35年の芝浦下水処理場からで、その後、砂町・小台処理場にと順次採用されている。

天日乾燥床から機械脱水機への変遷は、昭和33年に砂町下水処理場し尿消化槽汚泥の脱水用に導入されたヤングフィルター型真空脱水機であった。し尿の消化汚泥は繊維質が多いために無薬注でも脱水でき、さらにこの脱水汚泥を熱風乾燥することで取り扱いに優れた有機肥料として農業従事者に重宝され、昭和573月末日、し尿処理の「清掃局からの受託」が終了するまで生産されていた。